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あさま山荘事件とはどんな事件?連合赤軍とは?あさま山荘事件はなぜ起きた? [事件]

45年前の1972年2月19日。
場所は真冬の軽井沢で起きた、
日本中を震撼させた
あさま山荘事件。


散弾銃などで武装した連合赤軍メンバー5人が
管理人の妻を人質に取り、
10日間に立てこもった
あさま山荘事件。


あさま山荘事件とはどんな事件?
連合赤軍とは?
あさま山荘事件はなぜ起きたのか?


今回詳しく調べてみました。


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あさま山荘事件はどんな事件?


民間の保養所「あさま山荘」に
連合赤軍メンバー5人が
散弾銃などで武装し
管理人妻を人質に立てこもったのが
あさま山荘事件です。


アジトから夜に山越えをした
連合赤軍メンバー。


暗くて道が分からないまま
カマクラを作ってしのいだ夜中でした。


朝起きてみると軽井沢の別荘地。

メンバ-は、市街地へ行って食料を調達する4人と
山を抜ける5人に分かれました。


山を抜ける5人に選ばれた少年Aの証言によると、
ある山荘に車が停まっており、
その車で逃げようという話で

山荘の中に入って車のカギを盗もうと
山荘の中に坂口というメンバーが入っていった。


そこで管理人の妻と鉢合わせ、
やむなく管理人妻を人質に籠城することに。


真冬の軽井沢。
氷点下-10℃以下。


犯人からの要求もなく
人質の安否も不明。
警察は状況を見守るしかない。


警察が強行突破できない理由がありました。
当時の後藤田正晴警察庁長官がこう言明。
「絶対に犯人を死なせてはならない。
死ねば英雄になってしまう。
必ず生きたまま逮捕し、罪を償わせろ」


3日目の2月21日。

立てこもり犯の坂口と吉野の母が
説得に当たります。


そんな母親の説得もむなしく、
吉野は、母へ発砲する始末。


その日あさま山荘内でテレビを見ていた
連合赤軍メンバーは、
テレビで流れたある映像に
ショックを受けます。


アメリカのニクソン大統領が
中国の毛沢東や周恩来と
握手する映像でした。


連合赤軍メンバーからすると、
アメリカはベトナム戦争のあと、
中国はじめアジア全体を
巻き込んだ襲撃をしてきて
大規模な戦争となると
思っていたわけで、


アメリカと中国が国交を
樹立するなんてあり得ない。


連合赤軍メンバーは
戦う根拠をなくしてしまい
愕然とします。。


4日目の2月22日。

人質の身代わりになろうとした民間人を
坂口が銃殺するという事件が起きます。


坂口は、公安警察だと思って銃殺したそう。
被害者は1週間後に死亡。


10日目の2月28日、
事件は大きく動きます。


警察が強行突入すると
事前に察知した坂口。


午前10時ついに
警察が突入開始。


大きな鉄球を9回打ち付け、
物理的に山荘自体を破壊するという作戦。
壁が崩れ落ち、ガス弾の集中攻撃。


実は警察は、人質の女性の安全を考え、
あさま山荘の模型を作って部屋を検証、

鉄球で破壊するポイント、
どう避難通路を確保しようかと
綿密に作戦を立てていました。


突入作戦から8時間後の午後6時15分。
人質の女性は無事救出、
犯人は全員逮捕。


連合赤軍とは?


あさま山荘事件の犯人は
連合赤軍のメンバー。


そもそも連合赤軍とは
なんなのか?
そのルーツは以下です。


昭和35年6月15日、
国会議事堂の周りを埋め尽くす人
10万人以上。
日米安保条約の延長と改正に
反対する人々。


8年後の昭和43年の高度経済成長期。

高層ビルや高速道路の建設ラッシュの
華やかな成長の陰に
格差、不平等、公害、社会問題。


さらに2年後には
日米安保条約の延長が控え
学生を中心に政府への反対運動が再燃。


背景としてはベトナム戦争がありました。

アメリカが近代兵器を駆使して
ベトナムという小国を攻撃
日米安保条約によって、
あたかも日本もアメリカの
ベトナム攻撃に
協力しているかのよう。


学生たちはそんなアメリカと
結託する日米安保条約に対して
反発心を募らせます。


ついには昭和43年10月21日の国際反戦デーでは
デモ隊が暴徒化し機動隊と衝突、

学生運動は全国に広まり、
紛争を抱える大学数は
116校にまで拡大。


その象徴ともいえる
東京大学安田講堂事件。


機動隊は死者を出すまいとの意図から
2日間ホースで大量の水を撒くという
”水攻め”作戦を決行し、
こうして学生631人を逮捕。


この東京大学安田講堂事件収束によって
むしろ全国の学生運動はエスカレート。


暴徒化についていけない一般学生は
離れていき、
より過激な思想を持つ集団が
形成されていきます。


昭和44年頃台頭してきたのが、
過激な武装集団「赤軍派」。
のちに連合赤軍を結成する集団のひとつ。


京都大学など関西のエリート大学生を中心に
400人以上の学生が集結。

強い軍事力をもとに
”世界同時革命”を起こすと豪語。


赤軍派は、山梨県大菩薩峠にて
首相官邸襲撃のための
軍事訓練を行っていたという。


しかし不穏な動きを察知した警察が
山梨の山小屋を包囲、
実行部隊53人を一斉検挙し
首相官邸襲撃計画は
未遂に終わります。


主力メンバーを一気に失った赤軍派。
しかし残りのメンバ-が次に画策したのは
昭和45年よど号ハイジャック。


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田宮ら赤軍派メンバーは思惑通り
ハイジャックに成功、
よど号で北朝鮮へ向かった。


幹部が国外に去り、
弱体化した赤軍派。


そこで赤軍派リーダーとなったのが
当時25歳の森恒夫。
リーダー森の命令で資金調達のため
繰り返された銀行強盗。


この頃結成間もないグループ革命左派。
後に赤軍派と合併して連合赤軍となる。


革命左派のリーダーが永田洋子。

過激化した革命左派は、
昭和46年2月17日、栃木の鉄砲店を強盗、
猟銃や実弾を大量に強奪。


しかしこの事件でも
メンバーが2人逮捕。


次々と幹部が減る中、
革命左派では
当時26歳の永田洋子に
実権が集中、


昭和46年4月23日、
森恒夫は永田洋子と接触。
金はあるが武器がない赤軍派。
武器はあるが金はない革命左派。


両者の利害が一致し、
ついに「連合赤軍」が誕生したのです。


あさま山荘事件はなぜ起きた?


あさま山荘事件の2ヶ月前。

群馬の榛名山の山小屋。
赤軍派森恒夫と
革命左派の永田洋子が合流。


そこでの会議で
さかんに論争された”総括”


総括は、いつしか暴力へ。
”殴ることは指導だ”と森恒夫は語り
暴力を正当化していく。


総括という名のリンチ殺人。


当時の絵を見ますと、
首を縄で巻いて、
2人が両側から引っ張るという
残酷なもの。


また寒い外に縛られ放置され
飢えと寒さで死んだ者も。


総括により殺され、
8名の遺体が山の中に埋められていたそう。


リンチによる犠牲者は
12名だそう。
兄弟や恋人、妊娠8か月の女性など、
すべて20代の若者。


さらに仲間二人が
千葉県印旛沼で遺体で発見。
やはり20代。


若い命が次々に”総括”の名のもとに
奪われていく。
そんな地獄に耐えかねて脱走した
メンバーもいたそうです。


森恒夫の思想に
もはやついていけないメンバーも。


そんな森や永田の独裁も
長くは続きませんでした。


その後主犯格の森恒夫と
永田洋子は、任務から離れ、
一旦山を下りていたときに
警察に逮捕されます。


幹部たちが逮捕されてしまい、
残された連合赤軍メンバーは、
警察に追われ迷走する羽目に。


そして辿り着いた先が
あさま山荘だったのです。



以上、 
「あさま山荘事件とはどんな事件?連合赤軍とは?あさま山荘事件はなぜ起きた?」
でした!


今回も最後までお読み頂き
ありがとうございました!


それでは失礼いたします!


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